会員の声

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稲荷山古墳出土の鉄剣の115文字

顧問 守口 澄

文藝春秋の平成26年3月号に立花隆が「古代史のなかの埼玉」というエッセイを寄せている。冒頭で立花は、「この正月をはさんで、埼玉県行田市の稲荷山古墳に二度も行ってきた」と書いていたが、何度か行ってみたくなるのはよく分る。私もここ2年間で稲荷山古墳には友人らと3回行っている。 荒川と利根川が近くを流れていて、それぞれの流れは結構早い。昔はしばしば氾濫を起こし、この地域(埼玉=サキタマ)は平坦で農業をするのに適した肥沃な土地となった。そこに多くの渡来人がやってきた。
日本列島にやってきた渡来人の数については、埴原和郎のいわゆる「百万人渡来説」があり、それによれば、縄文末期から7世紀までの約千年の間に毎年1500人ずつ日本列島に外部から人間が移り住んできたというイメージらしいが、その渡来人がこの埼玉の地にも多く住み着くことになった。稲荷山古墳から数十キロ離れた群馬県吉井町には、8世紀に立てられた「多胡碑」という石碑があるが、これは、人口増にともなって、これまでの片岡郡、緑野(みどの)郡、甘良郡から300戸を割いてあらたに多胡郡をつくれという宣旨が刻まれたものだ。
さて、稲荷山古墳の目玉は何と言っても、そこから出土した115文字が金の象嵌で彫られた「鉄剣」である。古墳に埋葬されていたのは代々大王の警護役を務めてきたヲワケ一族の長。鉄剣には仕えてきた大王ワカタケル(=雄略天皇)の名が刻まれている。
ワカタケル大王がこの日本列島の有力者であった古代日本はどんな国情だったのか。縄文の昔から日本列島にはいろいろな集団が大陸や南の島々から移り住んでいた。彼らにはそれぞれの集団としてのアイデンティティはあったであろうが、日本列島全体をひとつの集団としては認識していなかったであろう。ヨーロッパの国々から植民が行われた北米大陸も、当初はそれぞれの出自をアイデンティティとする集団がモザイクのように存在していた。古代の日本列島もそれと同じような状況だったのではないか。中学、高校では習わなかった時代のことだけに妄想が膨らむ。
「日本書紀」の記述によれば、大和朝廷と百済国のコミュニケーションでは通訳は存在せず、新羅国との間では通訳を介在させていたそうであるが、であるとすれば、白村江の戦いで敗れた百済国の人間が大量に日本列島に流れ込んでくる以前に、すでに日本は百済の人間の植民が進んでいて、それが和言葉の元になっていたのであろうか。いずれにしても「日本国」成立以前の話ではあるが。
さて、私が個人的にこの鉄剣の文字に感動を覚えたのは、その文字の「稚拙さ」に対してであった。古代の和言葉の音を漢字の音を頼りに何とか記録に留めようとする先人の涙ぐましい営為に触れたように思えてえも言われぬ感動を覚えたのだった。
立花隆は「本物の鉄剣は一見してすごいと思った。とにかく圧倒的な存在感がある」と書いていたが、私にとってのこの鉄剣の「圧倒的な存在感」は、一千年以上の時を経ても同じ民族として味わうことのできた、稚拙な文字が喚起する時代を超えた「通時的な共感」ゆえであった。われわれの先人は圧倒的な中華文明の力を借りて、自らの生きた証しを文字によって残そうとした。その営為によってあの時代の記録が残り、そして日本語そのものが出来上がっていった。
平成25年12月から、私は地域の民生委員を拝命しているが、その新任研修で講師が、住民ニーズに応えるためには「共感原理」が不可欠と言っていた。ここでいう「共感」とは同時代を生きる者たちとの「共時的な共感」を意味しており、そのことにまったく異論はないのだが、むしろ、日本が成熟社会に相応しい落ち着きを回復するためには、鉄剣から私が味わったようなわれわれの先人たちとの繋がりを感じる「通時的な共感」にもっと光を当てていいのではないかと思っている。
われわれは戦後の平穏な時代に生きてきて、かつての激動の時代を生きた先人の思いに対する共感が薄れているように思えてならない。いまの自分たちが生きている時代の気分からの発想が本当に普遍的なものなのか。稲荷山古墳の資料館に陳列されている鉄剣を見て覚えた「通時的共感」は、それを相対化する視点を示唆しているように私には思えた。