JDRACの現在の活動

JDRACの活動

ノモンハン事件戦没者遺骨収集応急派遣団

この度、JDRACは、厚生労働省の戦没者遺骨収集応急派遣先としてモンゴル(ノモンハン事件)行きを任命されました。ノモンハン事件は、昭和14年(1939年)5~9月にモンゴルの旧満州との国境近くのノモンハンで起こった軍事衝突事件で、ハルハ側を国境とする満州国とハルハ川の東のノモンハン付近を国境とするモンゴル人民共和国の両国警備隊の交戦をきっかけに、満州国を支配していた日本と、モンゴルと相互援助協定を結んでいたソ連がそれぞれ軍を投入して大規模な戦闘に発展し、死傷者は日本側2万人、ソ連側2万6千人とされています。

8月23日に厚生労働省の池田団長、厚生労働省慰霊業補助員比留間さん、モンゴル語通訳の加藤さんと私の4名で構成されたノモンハン事件戦没者遺骨収集応急派遣団に参加し、前日は、台風の影響で大混乱していた成田空港を定刻通り14時40分に離陸しモンゴルの首都ウランバートルチンギスハーン空港に20時25分に到着。

8月24日
モンゴル日本国大使館、モンゴル赤十字社、モンゴル外務省へ表敬訪問。 8月25日 モンゴル行政監察庁、モンゴル税関庁を表敬訪問後、国内線で東部の都市チョイバルサンへ移動。

翌8月26日
モンゴル赤十字社チョイバルサン支局へ表敬訪問後、車に分乗し地平線がどこまでも続く草原を、土煙をたてながら東へ東へとノモンハン事件の戦場近くのスンベル村の博物館へ10時間の移動。

8月27日
(作業1日目)スンベル村国境警備隊基地表敬訪問後、村人10人と合流しロシアからもたらされた情報に基づき調査対象地の戦地へ出発。 ハルハ川を渡り見渡す限りの草原をGPS座標値へ移動。調査作業は、スコップで乾燥した砂を5m四方にわたり約1.5mの深さまで掘り、出土されたものを調べ、埋め戻し移動を繰り返します。この日は成果なし。博物館でロシア調査団が掘り起こし預けていた遺骨2柱が納まった箱を受け取り団長室の壁に掲げた日本国国旗の下に白布を敷き安置。

8月28日
(作業2日目)ロシアからの情報地点を調査作業するも成果なし。

8月29日
(作業3日目)モンゴル赤十字社のムンフトゥルさんがロシア調査団の活動を目撃していた遊牧民から聞いた場所を調査。ハルハ川を西に臨む丘で東側が窪む塹壕と思われる場所から15柱の遺骨を収集。

翌8月30日(作業4日目)レミゾフ高原の南側で昨日の地形に良く似た場所で作業。 3柱の遺骨を収集。

8月31日
(作業5日目)20柱の焼骨式。日本国国旗と花輪の前に鉄板を敷き、薪を組み上げ遺骨を置き、拝礼、団長報告、献花後、薪にガソリンをかけ点火。1時間ほどで薪を外し鉄板が冷めるのを待って収骨。

9月1日
博物館見学後、チョイバルサンへ車で8時間の移動。

9月2日
モンゴル赤十字社チョイバルサン支局へ報告後、ウランバートルへ車で11時間の移動。

9月3日
モンゴル赤十字社で行政監督庁の遺骨梱包検査後、モンゴル航空で遺骨預け手続、モンゴル戦没者慰霊堂訪問、モンゴル赤十字社夕食会参加。

9月4日
ウランバートル市内を観光。

9月5日
8時55分発成田空港行きに搭乗。離陸後飛行機の窓から眼下の景色を眺め続け、モンゴルの砂漠、草原、中国上空そして約4時間後、日本海側から新潟、福島上空を横切り、太平洋上空を南下し、着陸待ちなのか77年ぶりに帰国する20柱の英霊を楽しませるためなのか房総半島上空で旋回を繰り返し、富士山を臨み、利根川の流れを眺め、ゆっくりと太陽の光にきらきらと水溜りが輝く成田空港滑走路に降りて行くのを見届けました。成田空港で出迎えの厚生労働省職員に遺骨を引き渡し池田団長のもと4名で構成されていた団の解散式を行いました。
今回の遺骨収集事業は、台風と台風の間で予定通りに日本とモンゴルを往復し、2ヶ月間雨の降らないモンゴルの乾燥した好天の草原で調査作業を行い、焼骨式の涙雨から本降りの雨に恵まれ、最後にきらめく滑走路に着陸したのです。人間は、大きな力の中で生かされているのではないかと思わざるを得ない特別な経験でした。

9月6日
午前10時より厚生労働省本省で行われた慰霊式に参列。厚生労働省を出てモンゴルの涼しさとはかけ離れた残暑の中、戦前日本陸軍参謀本部のあった憲政記念館の前を通り、皇居を眺めながら千鳥ヶ淵戦没者墓苑まで歩いて行きました。平日で人気のない静寂した墓苑で菊の花を献花し、深々と拝礼をしながら心を整理し、2週間にわたる戦没者遺骨収集応急派遣事業を完遂したことを報告しました。

 

以上。

平成28年9月30日
特定非営利活動法人日本地雷処理・復興支援センター
副理事長 加藤盛也